第6話
席を立って壁にかかっている時計の電池をたしかめた。
ケースからはずれてもいないし、替えたのは一週間前だからまだ狂うには早すぎる。
問題ない。問題ないのに、この時の進みの速さはどうしたことだろう。
うあああ、と呻くカノンに、落ち着いて、とマキが苦笑混じりの声をかけた。
「時計チェックしすぎよ、カノンちゃん。もう何度目?」
「今ので十回目ですね……」
「数えてたんですか!?」
呆れているマリーは初めての文化祭のステージだというのに落ち着き払っている。
いつもよりは多少硬くなって入るものの、それでもカノンよりはずっとどっしり構えて、こんな何回も時計をたしかめたりなどしていない。
カノンは去年一度は経験しているというのに、やはりというか、去年以上に緊張している気がする。
「こういう時は、ほら、あれです! 深呼吸です!」
「う、うん。すぅぅ……はぁぁ………」
マリーに言われるまま大きく息を吸って吐いてみる。
後半はため息にしか聞こえなくて、我ながらこの気の弱さはどうしたものかと頭を抱えたくなる。
ステージまであと一時間を切ってしまった。
最後の打ち合わせもとうに済んであとは開演を待つばかり、遠く離れた体育館の声は聞こえないけれど、今頃は演劇部の『ロミオとジュリエット』が盛り上がっているはずだ。
そのあとに合唱部、そしてその次が自分たちjamバンドという順番だった。
カノンは席についたものの、またすぐに立ち上がった。
「お、お手洗い行ってきます」
「………お気をつけて」
校内の、しかもほんの数十歩の距離に何を気をつけろというのか、カナのボケ(かどうかわからないけれど)にろくな切り返しもできず、カノンはぺこりと頭を下げるとそそくさと部室を出た。
と言っても、実際トイレに行きたかったわけではもちろんなくて、要は部室の空気から逃げたかっただけなのだ。
リズムは何も言わなかったけれど、こんな妹をどう思っていることだろう。
廊下に出るとカノンは部室から少し離れた階段下のスペースにしゃがみこみ、はぁ、と大きく息を吐いた。
さっきの深呼吸とはちがって、これは正真正銘のため息だった。
一人になると、ほんの少しだけ気が楽になった。
部室棟の廊下は皆忙しく立ちまわって、誰もカノンに気を留める様子はなかった。
そのこともカノンの気を落ち着かせた。
自分がこんな必要以上に緊張している理由はわかっていた。
それは、今日が今のメンバーでできる最後のステージだからだ。
三年生のマキ、カナ、そしてリズムは今日のステージを機に実質引退となる。
今後たった一人の二年生として(元々二人しか部員は残らないとはいえ)後を任される責任も重かったが、それより何より、リズムと一緒に立つステージが今日で最後だということの方がカノンの気持ちを大きく占めていた。
文化祭が近くなってそのことを意識し始めると姉への劣等感は以前にも増して、練習にのめり込むことでうまく忘れていたけれど、ステージを目前に控えた今になってぶり返したようにどっと胸にのしかかってきた。
リズムの高校最後のステージを最高のものにしたいし、リズムと一緒のステージに立てることはうれしい。
けれど自分なんかがその場所にいて本当にいいのだろうか。何か失敗をしでかしてしまわないか。
暗い想像はいくらでも後から後から湧いてきてカノンの気を塞いだ。
リズムなら杞憂だと笑い飛ばすのだろうけれど、そんなことができないのは自分が一番よくわかっている。
今日はとても大切な日だから、笑ってみんなと、姉と、いっしょのステージに立ちたいのに。
——————あ、ダメ。泣きそう。
うつむいてくちびるを噛みしめた時、キュッと音を立てて誰かの上履きが視界に入ってきた。